私と大判カメラ   山岳の達人・近藤辰郎先生に聞く
近藤 辰郎(こんどう たつろう)
1935年9月東京都新宿区生まれ。1965年東京総合写真学校を経て写真家横山宏氏に師事。その後フリーの写真家として独立。北アルプス全域、なかでも後立山連峰と槍・穂高連峰周辺の撮影を続ける。山岳、アウトドア雑誌、写真集に作品を発表。著書に「日本の名峰19白馬岳と後立山連峰」「コンタツおじさんの北アルプス案内【北部編/南部編】」「八ヶ岳連峰」(山と渓谷社)「日本の山」(毎日新聞社)「北アルプス」(実業の日本社)「日本百岳」(小学館)「槍ヶ岳讃歌」(山と渓谷社)等々がある。
※リンホフ2000等複数台使用
2015年4月にご逝去されました。謹んでお知らせ致します)

Q カメラとの出会いは?
A 父親が山を好きで、叔父が絵を好きだった影響もあったかもしれませんが、絵が好きで中学生の頃から山に行ってはスケッチをよく描いていました。将来は絵の道に進みたいとも思っていました。ただその時友人らと一緒に山に行っても、スケッチをしていると時間がかかり皆に迷惑を掛けていました。そんな時友人の「カメラ貸してやるよ」との一言から、山の写真を撮影することが始まりました。どういう訳か裕福な友人が多く、いろいろなカメラを借りては撮影したのを覚えています。もちろん当時はモノクロフィルム主体の撮影でした。ある時、さくら赤外フィルムと出会い、撮影した写真が今までに無い鮮明な写真で、これに感動し、その後山に行くときには1日1本の割合で写真を撮影していました。初めて自分のカメラを持ったのは、中学校の先生からプレゼントされたものでした。山と写真が好きな先生で、皆先生を慕って集っていました。先生は父親とも懇意の中で、ある時、先生にカメラ屋に連れて行かれ、「好きなカメラを買ってやる」と言われ、アイレス35Ⅱを買ってもらいました。当時のライカM3型に類似したレンジファインダー付きで格好良くて、嬉しくて嬉しくて仕方なかったのを覚えています。その後も一生懸命撮影して、又、父に買ってもらったリコーフレックスにプロクサーⅡをつけて、南アルプスで撮影した「チングルマの実」がアルパインカレンダーにも採用されました。更に写真熱は高まり、山と渓谷社にも投稿するようになり、何枚かは使ってもらいました。Q プロの写真家になられたのは?
A その後数年間のブランクがありましたが、やはり写真で身を立てて行くなら写真学校は出ないといけないという、父親の助言もあり東京総合写真専門学校に入学しました。 ここで改めて写真の基本を学びました。またこの学校で先輩の横山宏さんと、同級生の水谷章人さんと知り合いました。この時、横山宏さんは既に沢山山の写真を撮影して、写真をフォトエージェンシーに預けていました。この写真を、当時の富士フイルム社の部長さんが見て気に入り、「横山さんの作品は素晴らしいから、当時国際空港だった羽田空港に飾るGカラーの作品を撮ってもらおう」ということになり、横山さんのお手伝いとして私もこの仕事をやることになりました。なんせ8×10インチの写真です。2人でも大変で水谷章人さんも誘い、3人で2年間全国30カ所以上の山岳・風景写真を撮影しました。こんなことで大変忙しかったのですが、この時の経験したことが私の基礎財産になっていると思います。大判カメラのアオリ技術も横山さんから学んだといってもいいと思います。この後も富士フイルム社や山と渓谷社の仕事もさせてもらいプロとなりました。Q 山岳写真家としてはもちろん、モデル、アウトドアアイテムのアドバイザーとしても活躍されていますが?
A 山と渓谷社の仕事をするようになり、同社より何処何処に取材に行ってくれないか等の要望があり、日本全国の山に行きました。ある時、山と渓谷本誌の版形変更に伴い、表紙の写真を担当することになりました。その時自作自演で表紙にモデルとしても登場して欲しいととの強い要望があり、その時から『ひげ
のコンタツさん』が誕生しました。この表紙の仕事はモデルで1年、他のモデルを使い2年と3年続き、今でも誇りに思っています。その後もアウトドア雑誌での表紙モデルと連載もやって「コンタツおじさんシリーズ」が定着しました。アドバイザーとしては、アウトドアウェアやザックのメーカーなどに幾つかノウハウを提供しました。普通のカメラマンとは違ういろいろなことを経験できて大変楽しかったと思います。Q 大判カメラについては?
A 最初の仕事から大判カメラでしたから、大判カメラには大変な思い入れがあります。フィルムの持つ大きな情報量やアオリ撮影はもちろんですが、何と言っても撮影していて操作が楽しいのが何よりです。またもうひとつの魅力は国産、外国のレンズといろいろなレンズが使え、更に昔の古いレンズも使えることです。デジタル写真全盛ですが、否定はしませんが、今後の作品作りでも立体感と深みのある大判写真、銀塩フィルムにこだわりたいと思っています。(大判カメラマニュアルより)

私と大判カメラ
 
森の達人・石橋睦美先生に聞く
石橋 睦美(いしばし むつみ)
1947年千葉県佐倉市生まれ。10代の頃より日本の自然を知る目的で各地を歩く。1975年頃から東北地方のゆったりとした地形の広がりと植生の豊かさに魅せられ、撮影対象として取材を始める。日本独特の湿気感に培われた色彩が描く自然美を表現することをライフワークにしている。1989年頃からブナ林にテーマを絞り取材。北限から南限迄のブナ林の撮影を終えて、日本の歴史と文化の背景となった自然林をテーマに日本全国の森林を巡る。現在は,豊かな自然に神を見いだした日本人の原風景を探るべく神域を巡る。著書に「飯豊連峰・朝日連峰」「東北の山」「みちのくの名峰」「鳥海/月山」(山と渓谷社)「ブナ林からの贈り物」(世界文化社)「ブナをめぐる」(白水社)「森林美」「森林日本」「神々の杜」(平凡社)「日本の森」「熊野・神々の大地」(新潮社)等多数。
※リンホフクラッシック(改)使用

Q カメラとの出会いは?
A 小学生の時、その当時としては珍しかったカメラをおふくろが買ってくれたのがカメラとの出会いです。一眼レフタイプか覚えてないんだけどキャノンだったことは確かです。また親が写真屋の友達がいて、佐倉城のお堀端でよく撮影した作品を現像、プリントして写真を教えてもらってもいました。また高校のとき山岳部に入って友達と八ヶ岳などを歩き始めました。その時はカメラより山歩きの方がウエートが高かったようでした。Q プロの写真家になられたのは?
A 学校を卒業する時、就職しなければいけない状況になりましたが、山歩きを中途半端でやめるのが嫌で、学校の先生の紹介で青山の設計事務所に半分仕事、半分山歩きの条件で就職しました。今考えるといい加減だったと思います。この頃から本格的に写真を撮り始めました。その後、結婚して写真に専念するも中々食えなくて苦労しました。因に当時使用していたカメラはマミヤプレスやスーパーイコンタ、ローライ二眼レフ、ライカ等でした。
Q 大判カメラとの出会いは?
A 一番最初に木製暗箱を購入しました。購入した時はフィルムの大きさ等のメリットをあまり感じず何となく購入しました。そのうちに山と渓谷社の仕事が入るようになり、同社の雑誌「花の山旅」の原稿料をそのままリンホフ購入にあてました。その時コンタツさん(近藤辰郎氏)のアドバイスで幾つかのカメラ屋を廻って決めたのを覚えています。その時のリンホフが今使っているものです。
大判カメラは長く使えるということです。Q 森の写真と大判カメラの関係は?
A 山の写真より森の写真の方が大判の特性を数段活かすことができました。何故ならば森の中は細やかな葉や枝、幹等があり、それを表現するには大判のクオリティしか無いからでした。またピント面をコントロールするのにも優れているのもあります。Q 他方デジタル写真への取り組みも積極的ですが?
A デジタルを取り入れる前にまず35ミリで作品作りをしようというチャンスがありました。それはキャノンのカレンダーでした。それまで同カレンダーは手持ちの作品でまとめるようでしたが、私は大判がメインだったので35ミリで納得できる作品が無く1年間撮りおろしで取り組むことができました。その時の作品が「熊野 神々の大地」ですが、他の35ミリカメラマンと作品目線が違っていたと思います。それは大判目線で35ミリのファインダーを覗いていることです。それがあって今度デジタルを取り入れる時でも全く抵抗無かったと思います。35ミリの速写性と今のデジタルのクオリティの高さは新しい映像表現と思いますので大判と使い分けていこうと思います。私は銀塩とデジタルは別個のものと考えていますので同列比較等はしません。映像表現の選択肢がひとつ増えたということです。Q 今後大判カメラにチャレンジする方へのアドバイスは?
A 大判写真の魅力はデジタルの持つ速写性や簡便性と違い、一から十まで手作りで作品を仕上げて行くプロセスの大変さがありますが、それはある意味楽しみな訳でもあります。それは自分が撮影した作品への愛着心になります。苦労すればするほど愛着心は強くなります。他方これを楽しみにできるかが問題でもあります。ゆとり、苦労等全てを取り入れることができたら大判写真は最高と思います。大判カメラは思い入れの強さが一番反映されるものと思います。思い入れが弱いとピントが悪かったり露出が違っていたりします。ゆっくり時間をかけて、適切なアオリを使用して丁寧に撮影することを心がけてください。Q 今後の制作テーマは?
A 大判カメラで森の写真を撮影し、デジタルで神々の森を撮影しましたが、今後のテーマは未だ漠然としています。私は一つのテーマを見つけ何年か撮りおろしで作品をつくることが一つの形となっています。この次は・・・・・・・・・・。(大判カメラマニュアルより)

私と大判カメラ
 
大空の大判マスター・芥川善行先生に聞く
芥川 善行 (あくたがわ よしゆき)
1939年松山市生まれ。航空写真家の第一人者。海外向政府刊行月刊誌、カメラ雑誌や航空会社の機関誌、カレンダー等に写真を提供。NHK、民放テレビ等の特集番組放映。インダストリアルデザイナーとしても活躍しドイツで開催されるフォトキナに航空写真用カメラ「エアロアクタス」を連続出展。

※リンホフ4、5型等10台所有

Q カメラとの出会いは?
A 当時としては珍しいと思いますが、小学生の時に既に35ミリ判で裏紙の付いたフィルムを使用するカメラを使い出し、中学生でオリンパスを入手し修学旅行等の学校行事の写真を撮影していました。もちろん現像までやってました。
Q プロの写真家になられたのは?
A 正確にはいつなったかは記憶にありません。18歳頃、アサヒ、毎日、サンケイ、日本、フォトアート等の写真雑誌のコンテストに積極的に応募して、当時の初任給の3倍くらいの賞金を稼いでいました。この状態が雑誌社から応募を辞退して欲しいというまで数年間続きました。この頃、企業のコマーシャル写真として使いたいという仕事が入るようになりました。この頃の写真はまだ航空写真の仕事はしていませんでした。
Q 航空写真家になられたのは?そのきっかけは?
A やはり18歳頃、台風の写真を撮影したくて約1ヶ月与論島に取材に出掛けました。当時は交通網も確立されておらず、島に着くまで4日間も掛かったのを覚えています。現地は未だ宿泊施設も移動手段も無く、声をかけてくれた島のおばさんの家に厄介になり、駐在所の巡査のバイクの後ろに乗せてもらい台風以外の写真撮影しました。他の島に移動するのも貨物船に乗せてもらい移動していました。この取材の最終で、当時東亜航空が発足して3日目の、8人乗り飛行機に搭乗することが出来て帰路につきましたが、低空で飛ぶ飛行機の窓から海や島が見えて、これに感動し航空写真を意識したのを覚えています。その後、四国電力の仕事で航空写真も撮影し始めました。ただこれはあくまで仕事でダムなどの写真が主でした。この時から仕事で稼いだお金で、飛行機をチャーターして自分の好きな写真も撮影し始めました。
Q 航空写真カレンダーの発行について?
A 35歳の頃、航空写真の腕を見込まれて、全日空のカレンダーを担当させていただくことになりました。このカレンダーは毎年70万部も発行されていますが、30年以上もお付き合いさせていただいております。因にこのカレンダーの写真は、全て4x5インチの大判カメラで撮影しています。航空写真だからといっても背の高い三脚から撮影していると理解してもらえば良いと思います。
Q 航空写真で何故大判なのですか?
A 普通の写真は画面全部で写真を見ようとするのですが、航空写真ではポイントを確認することが必要になり、これは35ミリ判ではできません。大きな情報量も魅力的です。
Q インダストリアルデザイナーとしてもご活躍ですが?
A ドイツで隔年で開催される「フォトキナ」には、毎回オリジナルの航空カメラ「エアロアクタス」を、かれこれ20年以上出展しています。これが世界中のジャーナリストにとりあげられ、写真撮影の依頼だけでなく、インダストリアルデザイナーとしての仕事も入ってきます。そもそも「エアロアクタス」は、市販のカメラでは自分の思うような写真が撮影できないので、それでは自分で作ってしまおうという気持ちでできたカメラです。カメラ製造については、国内で発売されているパノラマ系のカメラには、全て私のデザインが採用されていますし、中判カメラでレンズガードが採用されているのも私の設計でした。私はそもそも機械いじりが好きでカメラを始めたようなものです。子供の頃ジェットエンジン飛行機まで飛ばしたこともありました。この頃の夢や気持ちが今のデザインにも活かされていると思います。因に私は専門分野だけを極めることよりも、何でも挑戦して何でもやり、それらをコーディネートできることを心がけています。努力さえすれば人がやっていることは全て自分でも出来ますよ。いまは正直機械を作っている方が面白いよ。カメラという機械は世界中いろいろな人が見ますが、写真を見せることはどうしても限られてしまいます。
Q アマチュアカメラマンにアドバイスは?
A 航空写真撮影をする時は、大判用レンズでも採用されているレンズシャッターのカメラを使用しています。フォーカルプレーンシャッターは、露光量で光の調整をしますが、レンズシャッターは全速で正確に露光対応可能です。これが航空写真に不可欠とも思います。そしてこの利点は、ネイチャーフォトでも写真の差が出ると思います。大判カメラ用レンズは全てレンズシャッターなのですから。きっと素晴らしい作品が撮影出来ますよ。

私と大判カメラ
 
マルチカメラマン・大山 謙一郎先生に聞く
※多重露光による撮影
大山 謙一郎(おおやま けんいちろう)
1939年熊本に生まれる。1972年G.T.Sunを経てフリーランス。フランス(パリ)へ。女性誌の取材、カレンダー、ポスター等の撮影に従事。1976年アメリカ建国200年を取材。1977年東京銀座に事務所を開設。1987〜88年アサヒカメラ審査員。1989年日本写真学園講師。1989年〜全日本写真連盟関東本部委員。1990年日本カメラ審査員。1992年フォトコンテスト審査員。1977年より毎年個展開催。キャノンイオス学園講師。写真集多数発行

Q カメラとの出会いは?
A 高校の時、私の姉のボーイフレンドがニコンS2を購入し見せびらかしていましたが、それを私が借りて初めて写真を撮影しました。「これは面白い」と思い学校で学生証に貼る写真を撮影したり、スナップを撮って学友に喜ばれていました。僕の居た高校は受験校で結構東大に進学していた実績があり、真面目に赤門を目指して上京しましたが、受からずに日大の写真学科に入学しました。九州から東京に来るお金と最初の月謝は親が出してくれましたが、「後は自由にやりなさい」と放任だったため、すぐアルバイトでコマーシャルスタジオのアシスタントをして学費を稼ぎました。その時撮影していたのは、有名なお酒や乳製品のメーカーの製品でした。学校で習うより、コマーシャルスタジオでの実際の撮影の方が役に立つと思い、スタジオが終業した後でも一人で黙々と撮影の勉強をしていました。とくに昔の先生は「これを撮影してみなさい」と言ってアシスタントに自由にセッティングさせて、最後にチェックして注意しましたから大変勉強になりました。このスタジオに約1年半居ましたが、この時が写真の基礎を勉強した大変有意義な時間だったと思います。
Q プロの写真家になられたのは?A その後経験があると偽って、いきなりデザイン会社に入りカメラマンとして多くのコマーシャル写真を撮影しました。そこに2年居て、その後当時としては大規模のスタジオGTに入社し、8x10インチの写真を毎日何枚も撮影していました。時には11x14インチの写真も撮影しました。Q フリーになられたのは?
A スタジオGTの時ヨーロッパを40数日間取材する仕事があり、その時に昼間からワインを飲んだり、パリの街と自分との波長の良さを感じ、1972年に独立しパリに移住してしまいました。パリには5年居りました。仕事は主にパリコレ関係でケンゾー、芦田淳、三宅一生さんなどの写真を撮っていました。もちろんこの時は大判カメラではなく、35ミリカメラが中心となりました。この時の苦労は外人カメラマンに混じって、より積極的な撮影姿勢が求められたことでした。日本人モデルの草分け山口小夜子さんとも一緒に仕事をしてよく写真も撮りましたよ。その他ファッション誌や女性誌の仕事も沢山やりましたよ。だから写真の下積み時代に写真の何たるかを大判カメラで学び、フリーとなったパリ時代にその基礎を元に35ミリで仕事をしていたことになります。
Q 何故コマーシャル写真から女性写真にシフトしたのですか?
A コマーシャル写真はお金にはなるのですが、暗いスタジオに籠ってコツコツ仕事をして、その上クライアントの意向が85%位写真に入るので、どうも面白くなく今の路線になりました。もちろん基礎と実績がありますので、今でもコマーシャル写真は撮影できますよ。
Q 毎年個展を開催していますが?
A 今年で32回目になります。これは洋服のデザイナーが毎年自分のデザインの洋服を発表するのと同じで、「俺は今こういう写真を撮っているよ」という世間に対するメッセージのつもりです。だからその内容は毎年違うと思います。
Q デジタル写真への取り組みは?
A もちろんデジタルでも作品は発表しています。ただ現在、写真を指導する人はデジタルでできることを基礎に指導しているようで、写真のなんたるかをもっと理解した上で実践して欲しいと思います。デジタルだと画面上で簡単にトリミングすることを教えますが、大判を経験した人は撮影時にフィルムの中でトリミングします。この違いと思います。今のデジタルカメラはある程度写ってしまうから困るんです。写真はもっと奥の深いものです。
Q 今後大判カメラにチャレンジする方へのアドバイスは?
A わたしの撮影の根底となる基礎には大判カメラがあるから、35ミリでもデジタルでも撮影できると思います。是非写真の基礎を大事に学んでください。そしてじっくりものを見ることに心がけください。 

私と大判カメラ
 
食空間カメラマン・知新 温先生に聞く
知新 温 (あらた おん)
東京都出身。東京写真学園修了後、フリーカメラマンとして活動を開始。
テーブルデコレーション、フードスタイリング、店舗ディスプレイデザイン等を含む、食に関する総合的な提案と撮影を行っている。
ライフワークとして、中・大判カメラで撮影したフィルムから、ポリマー樹皮の原版を作製して刷り上げる、写真製版(フォトグラビュール)作品制作を試みている。
 

 「これから、仕事に就こうと思う人は、デジタルカメラを学んで下さい。」そんな先生の言葉で、授業が締め括られたデジタル化の過渡期。私が写真学校を終了したのは、まさにそんな時代でした。
 食品関係から、全くの畑違いである撮影の仕事に転職した私にとって、写真学校が全ての撮影機材との出会いの場所といっても過言ではありません。
 デジタルカメラを学ぶとは、一体どういうことか?
それまで学校で使用してきた35㎜一眼レフ、中判カメラを使い、デジタルカメラと同じ被写体を撮り比べることによって、両者の違い比較検討する以外に方法がないように思われました。
 しばらくするとフィルムカメラとの違いが顕著に表れる部分がはっきりしてきました。レンズの描写による奥行き、つまり立体感です。異なる性質の光源をミックスさせ、露出差を意図的に作りだす私の撮影スタイルでは、デジタルののっぺりとした質感描写は、ライティングを無意味な物にしているように、感じられました。
 それを解消するために、まず初めに取り組んだのが絞りのコントロールでした。しかし、闇雲に解放付近で撮影しても、ボケは表現できますが、解像力が落ちてしまう。そこで、レンズの性能を最大限発揮できる絞りで、美しいボケを表現できないだろうか?そんな疑問が、私を大判カメラの世界に導きました。
 しかし、写真学校でさえ、大判カメラを使わなくなった昨今。最初はカメラを捜すことから始めなければなりませんでした。ようやく人づてに借りることが出来たフィールドカメラ。これが、私と大判カメラとの出会いでした。
 大判カメラを独学で学ぶ内に、「アオリ」という光軸を意識的に変化させる操作に出会います。写真はまさに、『光画』であったのだという根源的な事実に、あらためて写真表現の奥深さを感じました。
 このカメラを積極的に使いたい!と思う気持ちとは裏腹に、写真界のデジタル化は加速度を増し、フィルムや印画紙の相次ぐ製造中止のニュースが続きました。そこで、もしフィルムが無くなってしまっても、撮り続けられる方法はないだろうか。そんな疑問から、古典的な写真技法である写真製版のノウハウを学んでみようと考えました。
 写真製版の工程とは、写真を撮影しポジ原稿を作成する。感光性樹脂板に露光し像を焼き付け現像する。版にインクを詰めプレス機で圧をかけて紙に刷り上げる。という物です。
 このプロセスの製版の段階で、デジタル撮影された原稿と、大きな情報量を内包した銀塩フィルムからの原稿からでは、版の精密さに明らかな違いが出るという事実を発見しました。この結果から、改めて、銀塩フィルムの解像能力の高さに気が付くこととなりました。
 大きなフォーマットの豊富な情報量、精密な描写を生み出すレンズ、表現をコントロール出来るアオリ、そして、ドットでは生み出せない銀塩フィルムの深み。これらの組み合わせがどんな未知の世界を魅せてくれるのか、プリントも含めて、探しに行ってみたくなりました。
 デジタルカメラを理解しようするところからはじまった、私の大判カメラへの旅。デジタル画像のグラフィック的な新しい世界と共に、アナログが生み出す新たな可能性を信じて、これからも大判カメラが生み出す写真の魅力を追求していきたいと思っています。

 

     
 
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